ルーチンな思い出の旅

山口からの帰りはいつも一日だった。行きがバスの関係で車中泊を要するのに対して、一日で東京に帰れる。なので、いつも同じような行程だった。
 最寄り駅を6:30の列車に乗車すると、8両編成の前4両だけが岡山まで行く。初めのうちは、前4両ばかりに乗っていたが、後ろに乗ってみたらがらがら。皆、直通車両に好んで乗ると知って、その後は後ろばかり乗った。糸崎で切り離されて、前4両に乗り移って福山まで行ったり、糸崎で次の列車をまったり、糸崎の次の尾道まで行ってみたりと色々なバリエーションを楽しめた。福山から岡山行きの快速が新設されて、福山で一休みできるようになって楽になった。快速はいつも空いていて、岡山まで楽が出来た。
 岡山からは、山陽本線に乗らず、赤穂線に乗った。赤穂線は夏は地獄で、いつも4両の冷房なしだった。その列車で、窓を全開にして相生まで行った。相生から姫路まではいつも立って、次の新快速の乗り換えに備えた。姫路からの新快速は、今でこそ8両や12両だが、当時は6両しかなかった。でもドアは二つしかなかったから、とっても快適だった。ドア横の戸袋窓のところが、シートピッチが広くて快適なので、いつもそこに座っていた。そのうち、新しい車両が入るようになって、ドアが3つになり、新快速は座りにくい列車になっていった。姫路で駅そばをのんびり食べている余裕が無くなったのもそのころからだ。(姫路の駅そばは、そばつゆの中にラーメンの麺が入っているようなそんな駅そばで特徴的だ。)
 米原では、JR東海の鈍行に乗り換え。4両のロングシート車で、いつも一番前の乗車口が階段の裏になっていて目立たず、余裕で座れた。他の乗り口が長蛇の列であっても。とはいえ、ロングシート。大垣で快速に乗り換え。岡崎から各駅停車になってしまう快速で、安城で追い越した鈍行に結局は豊橋から乗ることになる。しばしば、愛知御津で降りて、次の列車に乗り換えた。次の列車はいつも年季の入った車両で、浜松までは大混雑だった。浜松から静岡は再びロングシート車。トイレもないから、大変だった。6両つないでいて、前の方はいつもがらがらだった。静岡で一呼吸置いて、沼津行きに乗車。駅の売店などで大量に夕ご飯を買い込んで食べるのがルーチンだった。この列車、11両もあって、いつもボックスシートがついていた。最後に旅したときは、10両になって、ボックスシートも消え失せてしまっていたので、このルーチン旅を終えたのだ。
 沼津で目の前の品川行きに乗り換え。品川までボックスシートのがらがらの列車旅を楽しんだ。一度は、人身事故で抑止となり、新宿から家まで歩く羽目になったのも良い思い出だ。あのころは、ボックスシートに足を投げ出して、快適な旅が楽しめたものだ。